かもめダイアイリー

日々思っていることを記していこうと思います。

Untitled(無題)

ブログを読んでくださっているみなさん、お久しぶりです。

なかなかコロナウイルスの影響がおさまらず、大変な状況が続いている中ですがみなさんはいかがお過ごしでしょうか。

 

2ヶ月以上ぶりの投稿になるのですが、いろんな出来事がありました。

今回は個人的に起きた出来事と絡めて、今の自分の思いを率直に綴っていこうと思います。

 

就職活動をしていた中で、6月末に第一志望であり唯一最終選考まで進んだ企業の面接があったんですね。

けれども、結果的に内定をすることが出来ませんでした。

 

そこから私は少し立ち止まる選択をしようと思いました。

本来は立ち止まれるような状況ではなかったと思います。

仕事も決まらず、家族も経済的に厳しい中で立ち止まるというのは焦りと心苦しさがありました。

けれども、このコロナウイルス下における就職活動の中で世の中の波にいつの間にかのまれそうになっていたこと、また示された聖書の御言葉からそう感じたこともあり、一度就職活動を止めることにしました。

 

聞こえはいいものの、立ち止まっている時の自分は到底誇れるような姿ではありませんでした。

ただただ堕落し、神様と向き合うことから目を背け、「自分は愛されていない」「価値のない存在だ」などという思いが心の中を支配していました。

 

 

就職活動をする中で自分はこの就職活動が、神様の栄光を表すものとして用いられて欲しいと思っていました。

第一志望の企業に行くことでお金をたくさん稼ぎ、いろんな人を支え、献身者にお金を通じてサポートする。

その思いが叶えられなかった時に気づくことがありました。

 

それは自分の都合の良いように神様のために生きるという解釈をしていたことです。

自分は周りから良い目で見られるような企業に行きたいという欲を結局は捨てきれずに、神様のためにということを都合よく述べていただけに過ぎないのだと思わされました。

 

16歳の時に神様を信じて、クリスチャンとして歩んできたけれども、今までずっと自分のためにしか自分は生きてこなかったんだなあと。

 

神様は優しいので、求めたものをもちろん叶えてくださることもありましたが、与えられない時にいつも自分は、神様を責め、自分を卑しめることでそのような現実から目を背けていたんだと思います。

 

でも実は、2年前も同じような状況に立たされたことがあったんです。

けれども、今より少しばかり忍耐強かった私は、ある集会に参加した時に神様に、こう祈りました。

「神様、今私は求めたものが与えれらなくて、苦しくて死んでしまいそうです。けれどもあなたのために何が出来ますか。教えてください。」

 

神様の答えはこうでした。

「人を愛しなさい。」

 

衝撃でした。これが神様の愛なんだと気がつきました。

どんなに自分が愛している人から愛されない状況でも、苦しい中でも、神様は愛することを選択し、私に求めてきたのでした。

 

私はその時に正直無理だと思ってしまいました。

ここまで苦しい思いをして、愛したとて愛される訳でもないのにそれでも人を愛する選択をする。

そんな大きすぎる愛に私は逃げることを選んでしまいました。

 

いつの間にか逃げている自分が普通になってきました。

神様を知らんふりすることにも慣れ、現実から目を背けることにも慣れました。

 

けれど、神様の為に必死に生きている人を見るたびにその人が輝いていて、こんな風に生きることが正解なんだって。やっぱり気づくんです。

 

やっぱり人には、自分には、神様が必要なんです。

 

それから2年以上たった今、また同じ選択肢が与えられている気がします。

本当の意味で神様のために生きるために自分は何をするべきなのか。

どのような道を歩むべきなのか。

こんな自分に何ができるのか。

 

神様のために生きることを選択する時に自分の中で捨てなければいけないことがあることにも気がつきました。

 

誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。マルコ8章34節

 

 

神様のために生きる為にどの道を歩めばいいのか、今はまだ答えは見つかっていません。

けど、そろそろ逃げることは終わりにしたいなと思います。

捨てるべきものを捨てる時がきたのかもしれません。

 

今度こそはちゃんと神様の問いかけに答えるものでありたいと思います。

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