苦しみにあって苦しみにとどまる。
皆さん、お久しぶりです。
このような状況の中でいかがお過ごしですか??
少し落ち着きかけたような気がしていましたが、元通りになるにはまだしばらくかかりそうな感じですね。
この状況が落ち着いたら、会えてない友人とまた出かけたりしたいなあと思っています。
さて、話は変わりまして読んでくださっている方に質問なのですが、最大限喜んでいる状況を100点だとしたら、今のご自分の喜び度には何点をつけるでしょうか。
この質問を自分が所属している早稲田大学のKGK(キリスト者学生会)のメンバーにしたところ、「66点」、「95点」など多くの人々が自分としては高い点数をつけていました。
コロナの状況の中でも意外と満足できているのなら何よりだと思いました。
正直な話、私はここ数か月の間、というより数年間の間ほぼほぼ赤点のような状況がつづいていました。
理由は、単純に喜べなかったからです。喜びよりも自分の中には悲しみが蔓延していました。
そして悲しみの中で何を求めるべきかも求めていいのかもわからなくなっていました。
というのも今まで、16歳で神様を信じる者となってからは、歩む道の岐路に立たされた時や重要な場面において神様はいつも祈りを聞いてくださっていました。
大学受験も第一志望に合格し、希望するゼミにも入ることができました。などなどですね。
けれども約2年前、自分がずっと祈り続けていたことが初めて聞きれてもらえないという出来事がありました。
今となってはそれが最良の道を神様が選んでくださったと最近になってやっと理解しましたが、その時は神様に初めて拒絶を受けたような感情を抱きました。
(逆に今までわがままな祈りを聞いてくださっていたことは本当に憐れみであって、傲慢になっていたんだなあと振り返って思います。)
また、現在就職活動する中でも正直なところ全くうまくいっていません。
どれだけ神様に祈っても返ってくるのは、企業からのお祈りメールでした。(ちょっとうまい??)
このような中で何を求めるべきか、求めたらいいかもわからず、試しに求めてみても与えられない状況って本当に苦しいんだなと、感じています。
そんな中で、メッセージや聖書を(苦し紛れに)読む中で、ずっと「求めなさい」という言葉が与えられていました。
「いや、だから何を求めたらいいかわからないから困ってるんだよ。。」
と。
そう思っていましたが、そんな中でヨハネ16章24節の御言葉が与えられました。
今まで、あなたが
たは、私の名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。
この箇所は、最後の晩餐で、イエス様がこれから苦しみを受けにいく前に弟子たちに語った場面です。
イエス様は弟子たちに22節でこう言っています。
あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなた方に会います。そして、あなたがたの心は喜びにをあなたがたから奪い去る
者はありません。
私はこの御言葉を読んだ時、神様がずっと悲しみの中にいた僕に喜びに満ち溢れてほしいんだなあ、だから求めなさいって言ってるんだなって気づくことができました。
そしてそれは27節にあるように僕のことを愛しているからなんだと気づかされました。
喜びに満ち溢れるという言葉は英語で読むと
「Your joy will be complete」
だそうです。友達から教えてもらいました。
喜びがコンプリートするんです。100%になるんです。
ああ、なんて素敵なんだろうと。
と書いたものの、正直この御言葉に触れて以降も悲しみの中にあることも多々あります。
悲しみの中に忍耐してとどまろうと思います。辛いけど。
また与えられないんじゃないか、という不安もあります。
けど、今度は自分の欲やほかの人を見るんじゃなくて、神様を見上げながら求めたいなって思います。
神様が僕の心を喜びで再び満ち溢れさせてくださるまで。
同じように苦しみの中にある人、悲しみを覚えている人の励ましに少しでもなれたらいいなと思い、久しぶりに書かせていただきました。
頑張ろうね。忍耐しようね。そしていつか喜びに満ち満ちて一緒に分かちあいしましょう。
このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
それだけなく苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがあり
ません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから
です。
ローマ人への手紙 5章2節~5節