喜怒哀楽
お久しぶりです、どんひょくです。
皆さんお元気ですか。
社会人になった時期とコロナが流行り出した時期が重なって、学生時代に関わりのあった人たちと会う機会がより少なくなって少し寂しいなと最近は思っています。
新しい繋がりを作っていくことも大切ですけれど、繋がり続けていくことも大切なんだなと感じますね。
さてさて。
ここで1つ質問をさせてください。
皆さんは、「今自分の心のうちを”喜怒哀楽”どれかで表してください」
と言われた時に、どのように答えますか?
喜んでいるのか、怒っているのか、哀しんでいるのか、はたまた楽しんでいるのか。
感情というのは、日によったりその時の気分によったり様々かもしれません。
僕が聞きたいなと思っているのは一瞬の感情ではなく、今人生を生きている中でどの感情に最も埋め尽くされているのか、です。
改めてどうでしょうか。
「喜」「楽」と答えが出た方は、何よりです。
一度しか生きられない人生の中で喜びや楽しみの感情で溢れている方が、良いに決まってますね!!
「怒」「哀」と答えが出た方は、何がその原因になっているのでしょうか。なぜあなたは今怒りや哀しみの中にいるのかについて考えたことはありますか?明確な原因があるかもしれないし、気づけばその原因すら忘れていることもあるのではないでしょうか。
ちなみに少なくともこの5年間の自分の答えは、「哀」でした。
原因は「本当に神様に愛されているのかが分からなくなったこと」です。
元より自分は、自分を愛せなかった人間でした。
神様とで会う前は、外見や生い立ち、性格、全てが醜く感じられ、生きる意味すらも分からずに生きていました。
でも神様に赦されていること、愛されていることを知ってからは、渇いていた人生が潤い、色づいていきました。少しづつではあるけれども、心も変えられていきました。
それを感じるたびに「ああ、やっぱり神様は生きているんだ、愛してくれているんだ」と思うことが出来ました。
けれど神様の愛を知って数年経ったある時、今までの全てを失ったように感じる出来事がありました。
なぜ、神様はこんなことを自分にするのだろうか。
神様が本当に愛しているのだったら、こんな苦しみを与えるだろうか。
自分は愛されていないのではないか。
その出来事があってから、このような思いが少しずつ、少しずつ自分の心を支配していき、
そして気づけば、また自分は神様に喜ばれる姿とは正反対の人生を過ごすようになりました。
神様に対する当て付けのように自分を傷つけることで、神様に反抗した気分になっていたのだと思います。
本当に自分は弱い存在です。あれだけ受け取った神様の愛を信じきれず、疑い、向き合うことから逃げたのです。
けれど、その結果残ったのは傷だらけになったひとりぼっちの自分自身でした。
なぜこのようなことを書いたのかと言うと、
同じような状況にいる人が多いのかなと感じたからです。そんな人たちに少しでも読んでもらえたら嬉しいなと。
同じように神様を信じ、祈り、期待したけれども、その先に残ったのは想像した結果ではなく、哀しみであったこと。
その哀しみに向き合えず、
神様から離れた楽しみや喜びを見出そうとするけれども、心はいつの間にか渇き切ってしまっている。
そんな人が多くいることに気がつきました。
僕は、自分はいくら傷ついたって苦しんだけって別に構わないと思いますし、
人生の中で苦しみや痛みはこれから先いくらでも経験すると思います。
でも、哀しんでいたくはないんです。どんなことがあっても喜んでいたい。
神様にただ愛されているのであれば、構わないと思うんです。
なんやかんやあって、
最近は、ようやくまた祈れるようになりました。
少しずつ神様の愛を求められるようになりました。
幼い頃に想像していた24歳の自分の姿とは全く違うけれど、でもこれ以上後悔することのない人生を歩めみたいなと思っています。
落ちていくのは簡単だけれど、登っていくのは大変です。つくづくそう思わされます。
もし同じように悩んでいる人がいたら、哀しんでいる人がいたら、よければ教えてください。
少しばかりですが、執り成します。
あなたがいつか戻れるように、愛にまた憩えるように。