喜怒哀楽
お久しぶりです、どんひょくです。
皆さんお元気ですか。
社会人になった時期とコロナが流行り出した時期が重なって、学生時代に関わりのあった人たちと会う機会がより少なくなって少し寂しいなと最近は思っています。
新しい繋がりを作っていくことも大切ですけれど、繋がり続けていくことも大切なんだなと感じますね。
さてさて。
ここで1つ質問をさせてください。
皆さんは、「今自分の心のうちを”喜怒哀楽”どれかで表してください」
と言われた時に、どのように答えますか?
喜んでいるのか、怒っているのか、哀しんでいるのか、はたまた楽しんでいるのか。
感情というのは、日によったりその時の気分によったり様々かもしれません。
僕が聞きたいなと思っているのは一瞬の感情ではなく、今人生を生きている中でどの感情に最も埋め尽くされているのか、です。
改めてどうでしょうか。
「喜」「楽」と答えが出た方は、何よりです。
一度しか生きられない人生の中で喜びや楽しみの感情で溢れている方が、良いに決まってますね!!
「怒」「哀」と答えが出た方は、何がその原因になっているのでしょうか。なぜあなたは今怒りや哀しみの中にいるのかについて考えたことはありますか?明確な原因があるかもしれないし、気づけばその原因すら忘れていることもあるのではないでしょうか。
ちなみに少なくともこの5年間の自分の答えは、「哀」でした。
原因は「本当に神様に愛されているのかが分からなくなったこと」です。
元より自分は、自分を愛せなかった人間でした。
神様とで会う前は、外見や生い立ち、性格、全てが醜く感じられ、生きる意味すらも分からずに生きていました。
でも神様に赦されていること、愛されていることを知ってからは、渇いていた人生が潤い、色づいていきました。少しづつではあるけれども、心も変えられていきました。
それを感じるたびに「ああ、やっぱり神様は生きているんだ、愛してくれているんだ」と思うことが出来ました。
けれど神様の愛を知って数年経ったある時、今までの全てを失ったように感じる出来事がありました。
なぜ、神様はこんなことを自分にするのだろうか。
神様が本当に愛しているのだったら、こんな苦しみを与えるだろうか。
自分は愛されていないのではないか。
その出来事があってから、このような思いが少しずつ、少しずつ自分の心を支配していき、
そして気づけば、また自分は神様に喜ばれる姿とは正反対の人生を過ごすようになりました。
神様に対する当て付けのように自分を傷つけることで、神様に反抗した気分になっていたのだと思います。
本当に自分は弱い存在です。あれだけ受け取った神様の愛を信じきれず、疑い、向き合うことから逃げたのです。
けれど、その結果残ったのは傷だらけになったひとりぼっちの自分自身でした。
なぜこのようなことを書いたのかと言うと、
同じような状況にいる人が多いのかなと感じたからです。そんな人たちに少しでも読んでもらえたら嬉しいなと。
同じように神様を信じ、祈り、期待したけれども、その先に残ったのは想像した結果ではなく、哀しみであったこと。
その哀しみに向き合えず、
神様から離れた楽しみや喜びを見出そうとするけれども、心はいつの間にか渇き切ってしまっている。
そんな人が多くいることに気がつきました。
僕は、自分はいくら傷ついたって苦しんだけって別に構わないと思いますし、
人生の中で苦しみや痛みはこれから先いくらでも経験すると思います。
でも、哀しんでいたくはないんです。どんなことがあっても喜んでいたい。
神様にただ愛されているのであれば、構わないと思うんです。
なんやかんやあって、
最近は、ようやくまた祈れるようになりました。
少しずつ神様の愛を求められるようになりました。
幼い頃に想像していた24歳の自分の姿とは全く違うけれど、でもこれ以上後悔することのない人生を歩めみたいなと思っています。
落ちていくのは簡単だけれど、登っていくのは大変です。つくづくそう思わされます。
もし同じように悩んでいる人がいたら、哀しんでいる人がいたら、よければ教えてください。
少しばかりですが、執り成します。
あなたがいつか戻れるように、愛にまた憩えるように。
最近。
お久しぶりです。ドンヒョクです。
長らくブログの更新をしていませんでしたが、ふと思い立ち書くことにしました。
皆さんは、最近いかがお過ごしでしょうか。気づけば周りも社会人ばかりになりました。
「あの人は今何してるかなあ」
最近はそんなことを思う人が増えている感じがします。
社会人になるとコロナウイルスの影響もあってか、人付き合いががくんと減ったのでなんだか寂しいですね。( ´△`)
余談ですが、社会人になってからキャンプというものにはまり、なんとキャンプセット一式を遂に購入してしまいました。。休日が待ちきれません…!!
近況報告をすると、3月に大学を卒業し今は株式会社SpeeeというIT系の会社で営業をしています。ちなみに正社員ではなくパート社員として週5日で電話越しにお客様と何時間も話す日々を過ごしています。
結局どこにも就職することなく卒業し、
最初は大学院も考えてたんですが、紆余曲折あって今の会社で働くことになりました。
今働くようになって気づいたことなんですが、自分がどこにも内定できなかった理由が
「ただ単純に自分という存在が未熟であること」
だと思いました。
営業について学び始めたから気づいたんですが、面接も結局自分を営業するってことなんだなと。けど自分には自分の良さが今も昔もわからないんですよね。
そりゃ受からんわ、、、(笑)
今の会社の正社員の方々は本当に人間性も仕事力もすごくて尊敬できる人たちだなと感じるんですが、自分とのその方々との違いについて言うと
「人に良い影響を与えられるか否か」
だなと。
今までの人生で自分はいつも自分のことに精一杯で、自分のことを愛してくれる人ひとり愛することさえできず、むしろ傷つけてきました。
今の会社でも自分の営業成績を残すことに精一杯で、周りの人に負の影響を気づかぬうちに与えていたことに最近気づかされました。
こんな自分が本当に嫌ですし、だけれどもどうしたら良いのかもわからなかったんですよね。
恋愛も人間関係も仕事も結局のところ、「この人と一緒にいたいと思えるか」なのに。
簡単に見えて全然簡単じゃないですね。(笑)
いやあ、本当に変わりたいなあ。
久しぶりの投稿で弱音を吐いてしまって申し訳ございません。。
でも変わらなきゃいけない大切なところを教えられたのは本当に感謝です。
今回のブログは全然起承転結なくて、読みにくくて申し訳ありません!!!ただ最近の思うことを書きなぐってみました。いやあ、弱音吐くことも大事だよね、うんうん。
正直なところ、メンタル面でもそうですが信仰面でもかなり落ち込んでいます。
一番の原因は、
「神様に本当に愛されているか」を信じきれなくなったことです。
ここについては、神様のせいでもほかの誰かのせいでもなく、自分が苦しさに耐え切れなくなったことなのかなと感じています。
自分がこれからどこに向かっていくのか。そこに希望を持つことも忍耐をすることも今は難しいです。
何年も何年も何度も祈ってはみたんですが、今はお休みしてます。
最後に。
23歳にもなって恥ずかしいんですが、お願いがありまして。
どうか祈り励ましてください。m(__)m
できることならば久しぶりの方も含め会って色々お話聞かせてください。
最近の証とか、神様が自分にどんなことをしてくれたとか。恋バナもぜひ。もしくは実は来週婚約するんだよね~的なあれでも大丈夫です。(笑)
祈ってくれるだけで、あってくれるだけで喜びます。
僕に返せるものは何もないので、いつか自分が他の人に同じようにしたいと思います。
それでも良いっていう方ぜひご連絡お待ちしております。笑
ではでは!!
次は感謝なことを報告するブログになることを期待して。
ホームレス伝道に参加し始めたはなし。
皆さん、お久しぶりです。
最近はすっかり涼しくなりました。
道を歩いていると、どこからか漂ってくる金木犀(きんもくせい)の香りを感じながら、「すっかり秋だなあ」と、時の流れの早さをしみじみと感じています。
コロナウイルスは未だ落ち着く気配はみせませんが、なんだかウィズコロナというニュースタンダードに慣れてきてしまったような気がします。
さて本題に入りますと、先週の土曜日、そして今日と続けて、代々木公園で行われている、ホームレスミニストリーに参加させて頂きました。
(kokoro care tokyo とFacebookで検索すると出てきます。)
なぜ参加しようと思ったのか。
それは「自分のために生きるじぶんから変わりたいと思ったから」です。
もともと、ホームレスミニストリーに関心を持ったのは、イギリス留学で滞在した町がホームレスの方々で溢れていたことを目にしたことがきっかけでした。
そこでは、友人の何人かと一緒にホームレスの方々に衣料や食事を配りながらお祈りしたり聖書の言葉カードを配ったりしたことがありました。
けれども日本に帰ってきてからは、町にいるホームレスの方を見ながらも、「他人のことに構ってられない、自分が生きるだけで精一杯だ」などと、あれこれ理由をつけて見て見ぬふりをしていました。
色々なことに囚われ余裕をなくし、これまでさんざんブログでも書いてきましたが、霊的にも落ち込んでばかりいました。
そんな時に、いろいろな導きで、ある牧師先生と知り合い、話す機会があり色々な話をするうちに将来の話しになり、こんな会話がありました。
牧師「君は将来何がしたいの?」
ぼく「今はこんな霊的にひどい状態なのでなにも言えませんが、いつかはミニストリーをしてみたいと思っています。」
牧師「そうなんだ、どんな人たちに対してとかあるの?」
ぼく「昔から貧しい地域の人たちとかホームレスの方に何か思いがあるのでそれに携わってみたいなと」
牧師「じゃあやってみますか?」
ぼく「え、、」
牧師「知り合いにやってる人がいるから紹介するよ。やってみる?」
ぼく「そうですね、、やってみたいですけど、今はお金を稼がなきゃだったり余裕がないかもです。」
牧師「そんなのは理由にならないよ。忙しいけどそれでもやってる人は沢山いる。ただ逃げているだけだよ。」
ぼく「僕はなにに対してもおくびょうなので、そうだと思います。」
牧師「聖書にはおくびょうについてなんて言ってるとおもう?」
そう言って彼は聖書の御言葉をとりだしました。
そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
テモテへの手紙二 1:6-7 新共同訳
牧師「神様はおくびょうの霊をあたえるとおもう?違うよ、力と愛と思慮分別なんだ。じゃあ君が今おくびょうなのは神様を信頼してないってことなんじゃないの?」
ハッとさせられました。
今まで何をするにも逃げて来た自分、おくびょうな自分は神様を全く信頼していかったのだと。
傷つくのが怖いから、苦しいのが嫌だから逃げることを選んできた結果、神様からも遠ざかっていたことに気がつかされました。
神様は変わりません。
変わったのはいつも自分でした。
自分が逃げることを選択し、いつも神様のせいにし臆病なのも自分でした。
だからこそ結局自分のためにしか生きてこなかった自分は変わらなきゃいけないと思いました。
散々前置きが長くなりましたが、そんなこんなでホームレスミニストリーに参加してみることにしました。
賛美を歌い、メッセージをし、最後に食事を配るといったような感じです。
100人以上くるときもあるそうです。
このミニストリーを通じて、洗礼を受けたホームレスの方にもお会いしてすげえ!ってなりました。笑
神様がたしかに働かれてるんだと思います。
まだ通い始めたばかりですが、とても恵まれています。
このホームレスミニストリーを通じておくびょうな自分が知れたこと、神様が与えてくださるのは力と愛と思慮分別の霊だということをしれたことがなにより感謝です。
まだ右も左もわからないですがもう少し頑張って続けてみます!!笑笑
最後に
ぼくが誘っていいのかどうかわかりませんが、僕が参加した月曜日のミニストリーは人がとても少ないです。
若い人も全然いないので、もし興味があるひとがいたら一緒にいかがでしょうか?
それでは。
Untitled(無題)
ブログを読んでくださっているみなさん、お久しぶりです。
なかなかコロナウイルスの影響がおさまらず、大変な状況が続いている中ですがみなさんはいかがお過ごしでしょうか。
2ヶ月以上ぶりの投稿になるのですが、いろんな出来事がありました。
今回は個人的に起きた出来事と絡めて、今の自分の思いを率直に綴っていこうと思います。
就職活動をしていた中で、6月末に第一志望であり唯一最終選考まで進んだ企業の面接があったんですね。
けれども、結果的に内定をすることが出来ませんでした。
そこから私は少し立ち止まる選択をしようと思いました。
本来は立ち止まれるような状況ではなかったと思います。
仕事も決まらず、家族も経済的に厳しい中で立ち止まるというのは焦りと心苦しさがありました。
けれども、このコロナウイルス下における就職活動の中で世の中の波にいつの間にかのまれそうになっていたこと、また示された聖書の御言葉からそう感じたこともあり、一度就職活動を止めることにしました。
聞こえはいいものの、立ち止まっている時の自分は到底誇れるような姿ではありませんでした。
ただただ堕落し、神様と向き合うことから目を背け、「自分は愛されていない」「価値のない存在だ」などという思いが心の中を支配していました。
就職活動をする中で自分はこの就職活動が、神様の栄光を表すものとして用いられて欲しいと思っていました。
第一志望の企業に行くことでお金をたくさん稼ぎ、いろんな人を支え、献身者にお金を通じてサポートする。
その思いが叶えられなかった時に気づくことがありました。
それは自分の都合の良いように神様のために生きるという解釈をしていたことです。
自分は周りから良い目で見られるような企業に行きたいという欲を結局は捨てきれずに、神様のためにということを都合よく述べていただけに過ぎないのだと思わされました。
16歳の時に神様を信じて、クリスチャンとして歩んできたけれども、今までずっと自分のためにしか自分は生きてこなかったんだなあと。
神様は優しいので、求めたものをもちろん叶えてくださることもありましたが、与えられない時にいつも自分は、神様を責め、自分を卑しめることでそのような現実から目を背けていたんだと思います。
でも実は、2年前も同じような状況に立たされたことがあったんです。
けれども、今より少しばかり忍耐強かった私は、ある集会に参加した時に神様に、こう祈りました。
「神様、今私は求めたものが与えれらなくて、苦しくて死んでしまいそうです。けれどもあなたのために何が出来ますか。教えてください。」
神様の答えはこうでした。
「人を愛しなさい。」
衝撃でした。これが神様の愛なんだと気がつきました。
どんなに自分が愛している人から愛されない状況でも、苦しい中でも、神様は愛することを選択し、私に求めてきたのでした。
私はその時に正直無理だと思ってしまいました。
ここまで苦しい思いをして、愛したとて愛される訳でもないのにそれでも人を愛する選択をする。
そんな大きすぎる愛に私は逃げることを選んでしまいました。
いつの間にか逃げている自分が普通になってきました。
神様を知らんふりすることにも慣れ、現実から目を背けることにも慣れました。
けれど、神様の為に必死に生きている人を見るたびにその人が輝いていて、こんな風に生きることが正解なんだって。やっぱり気づくんです。
やっぱり人には、自分には、神様が必要なんです。
それから2年以上たった今、また同じ選択肢が与えられている気がします。
本当の意味で神様のために生きるために自分は何をするべきなのか。
どのような道を歩むべきなのか。
こんな自分に何ができるのか。
神様のために生きることを選択する時に自分の中で捨てなければいけないことがあることにも気がつきました。
誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。マルコ8章34節
神様のために生きる為にどの道を歩めばいいのか、今はまだ答えは見つかっていません。
けど、そろそろ逃げることは終わりにしたいなと思います。
捨てるべきものを捨てる時がきたのかもしれません。
今度こそはちゃんと神様の問いかけに答えるものでありたいと思います。
苦しみにあって苦しみにとどまる。
皆さん、お久しぶりです。
このような状況の中でいかがお過ごしですか??
少し落ち着きかけたような気がしていましたが、元通りになるにはまだしばらくかかりそうな感じですね。
この状況が落ち着いたら、会えてない友人とまた出かけたりしたいなあと思っています。
さて、話は変わりまして読んでくださっている方に質問なのですが、最大限喜んでいる状況を100点だとしたら、今のご自分の喜び度には何点をつけるでしょうか。
この質問を自分が所属している早稲田大学のKGK(キリスト者学生会)のメンバーにしたところ、「66点」、「95点」など多くの人々が自分としては高い点数をつけていました。
コロナの状況の中でも意外と満足できているのなら何よりだと思いました。
正直な話、私はここ数か月の間、というより数年間の間ほぼほぼ赤点のような状況がつづいていました。
理由は、単純に喜べなかったからです。喜びよりも自分の中には悲しみが蔓延していました。
そして悲しみの中で何を求めるべきかも求めていいのかもわからなくなっていました。
というのも今まで、16歳で神様を信じる者となってからは、歩む道の岐路に立たされた時や重要な場面において神様はいつも祈りを聞いてくださっていました。
大学受験も第一志望に合格し、希望するゼミにも入ることができました。などなどですね。
けれども約2年前、自分がずっと祈り続けていたことが初めて聞きれてもらえないという出来事がありました。
今となってはそれが最良の道を神様が選んでくださったと最近になってやっと理解しましたが、その時は神様に初めて拒絶を受けたような感情を抱きました。
(逆に今までわがままな祈りを聞いてくださっていたことは本当に憐れみであって、傲慢になっていたんだなあと振り返って思います。)
また、現在就職活動する中でも正直なところ全くうまくいっていません。
どれだけ神様に祈っても返ってくるのは、企業からのお祈りメールでした。(ちょっとうまい??)
このような中で何を求めるべきか、求めたらいいかもわからず、試しに求めてみても与えられない状況って本当に苦しいんだなと、感じています。
そんな中で、メッセージや聖書を(苦し紛れに)読む中で、ずっと「求めなさい」という言葉が与えられていました。
「いや、だから何を求めたらいいかわからないから困ってるんだよ。。」
と。
そう思っていましたが、そんな中でヨハネ16章24節の御言葉が与えられました。
今まで、あなたが
たは、私の名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。
この箇所は、最後の晩餐で、イエス様がこれから苦しみを受けにいく前に弟子たちに語った場面です。
イエス様は弟子たちに22節でこう言っています。
あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなた方に会います。そして、あなたがたの心は喜びにをあなたがたから奪い去る
者はありません。
私はこの御言葉を読んだ時、神様がずっと悲しみの中にいた僕に喜びに満ち溢れてほしいんだなあ、だから求めなさいって言ってるんだなって気づくことができました。
そしてそれは27節にあるように僕のことを愛しているからなんだと気づかされました。
喜びに満ち溢れるという言葉は英語で読むと
「Your joy will be complete」
だそうです。友達から教えてもらいました。
喜びがコンプリートするんです。100%になるんです。
ああ、なんて素敵なんだろうと。
と書いたものの、正直この御言葉に触れて以降も悲しみの中にあることも多々あります。
悲しみの中に忍耐してとどまろうと思います。辛いけど。
また与えられないんじゃないか、という不安もあります。
けど、今度は自分の欲やほかの人を見るんじゃなくて、神様を見上げながら求めたいなって思います。
神様が僕の心を喜びで再び満ち溢れさせてくださるまで。
同じように苦しみの中にある人、悲しみを覚えている人の励ましに少しでもなれたらいいなと思い、久しぶりに書かせていただきました。
頑張ろうね。忍耐しようね。そしていつか喜びに満ち満ちて一緒に分かちあいしましょう。
このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
それだけなく苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがあり
ません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから
です。
ローマ人への手紙 5章2節~5節
必要なことは一つだけ。
皆さんお久しぶりです。
前回のブログ更新からだいぶ経ったと言いますか、気づいたらもう日本に帰ってきました。笑
ブログを始めてから多くの方に「読んでるよ!」との声を頂きとても嬉しかったです。
だからこそ本当に書きたいときに書こうと思っていて。
そうしているうちにしばらくしてしまいました。
なので留学のお話は興味がありましたらぜひ直接聞いて頂ければと思います。
さてさて。
日本に帰ってきてからというものの、私は就活に明け暮れています。
そして、少し焦っていました。
3月1日からが就活解禁日とされていますが、実際のところ早い人は12月に内々定(内定の内定)をもらっているのです。
勿論留学をしていた私は内定などもなく、冬にあるセミナーやインターシップにも数えるほどしか参加できなかったので、3月からの就活解禁日以降にできることをやろうというマインドでした。
そんな中でのコロナウイルスの蔓延。
3月の説明会やイベントはほぼ軒並み中止。直接の情報源が全て立たれてしまいました。
どの企業が自分に合うのかも、会社の雰囲気もまるで分かりません。(これは現在多くの就活生が直面している状況であるかと思います。)
企業も大きく打撃をうけ、採用取りやめや、採用人数を減らす企業も多く出始めました。
否が応に不安になりつつも、「なんとかしてエントリーしなければ!」
と訳も分からぬまま、エントリーシートを書き続ける毎日。
あれほど自分の中で神様にゆだねようと思っていた就職活動はいつの間にか不安に満ちていきました。
教会に行く時間ですら惜しいと感じてしまうほどに。
そんな中で、唯一インターシップにもセミナーにも全てのイベントに参加した企業からの落選メール。
ここには受かる気満々だったのに、面接さえ受けることすら叶いませんでした。
とうとう頭のキャパがオーバーし、
神様は僕のそばにいてくれないのか、助けてくれないのかと問いだすようにまでなりました。
(被害者ぶるのは僕の悪い癖なのです。)
そんな日々がしばらく続き、先週の日曜日。
普段通う教会が、コロナで青年礼拝がなくなったので、渋谷にある教会に行くことにしました。
教会までの道のりの中でふとこんな疑問が湧いてきました。
「どうしてこんな状況でも自分は教会に行くことを選択しているんだろう」
そしてそのとき自分が何を大切にしていたかを忘れていたことに気が付きました。(気が付かされたんでしょうねきっと)
自分はこの就活でなによりも神様を大事にしたかったことに。
自分の将来が神様に用いられるよう願っていたことに。
「早稲田に入ったのだからいいところに行かなきゃいけない。」
「全部落ちたら、周りからなんて思われるだろう。」
「恥ずかしい」
今までの不安の中に神様への思いは全くなかったことに気づかされました。
大きな不安にあるときほど、神様が気づかせてくださることは本当に感謝なことだと思います。
神様の為に生きることを選びたいと思うときに、抱えている不安はそれに比べたらなんてことなどないんだなあと。
自分が今大切にしているものはなにか。忘れないようにしたいな。
ただただ、神様に忠実であり続けたい。
そう思わされた出来事でした。
このシェアが就活をしている方以外にも、不安を抱えている方々の励ましになれたら幸いです。
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
ルカの福音書10章41、42節
忘れちゃいけない
イギリスでの生活も気づけば半分が過ぎ、残り7週間ほどになりました。
前回のブログを更新してから「ブログを読んだよ!」という声をもらい、自分が思っていたより多くの人が読んでくれているんだなあと嬉しく思っています。
今回は僕がずっと書きたかったことを書こうと思います。
皆さんは、何かを覚え続けようとしたことがありますでしょうか。
英単語の暗記テスト、試験前の一夜漬けなどが身近な例でありますね。笑
しかし、それらが終わった後、忘れずに覚えていることは多くはないんじゃないかなと思います。
実際、僕は受験期の時にあれほど覚えた世界史のほとんどを忘れてしまいました(4年も過ぎたので当たり前なのかもしれませんが)。笑
何が言いたいかといいますと、人は覚え続けようとしなければ、とても物事を忘れやすい存在であるなあということです。
でもそれって当たり前だろ!!てなりますよね。笑
なのでじゃあどうして人は忘れてしまうのか、つまり覚え続けようとしないのかって疑問に思ったんです。
それはきっと''それ以上覚え続ける価値がなくなってしまったから''なんじゃないかなあと。
人間の記憶力にはもちろん限界があると思いますし、日々の忙しさの中で、いろんなことが起きて、いろんなことに心を忙しくしているうちに忘れていくのかなあと思うんです。
忘れる対象が物ならまだいいかなって思うのですが、それが人に対しての感情や、記憶だとしたら、なんだか悲しいです。
自分だけ覚えてるのに相手は覚えてない!!ていうことよくありません?笑
僕も今までたくさん人にしてきたと思いますけれど。
聖書には
「主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇跡と御口のさばきを。」
詩篇105篇5節
という御言葉があります。
神様は本当に良い方で、僕がイギリスに来てから大変だったことも多くありましたが、振り返ると素晴らしい出来事ばかりです。
僕はこの出来事を覚え続ける努力をしようと思います。
思い起こすこと。
それが愛する1つの方法なんじゃないかなって思いました。
神様だってきっと自分が良くしてあげたことを忘れられたら、悲しいと感じるでしょうし、でも覚え続けたらきっとうれしいんじゃないかなって思うんです。
人もまた然りですね。
''覚え続けること''
忘れたくないなあ。
ここに来て神様の思いをまた少しずつ知れていることが本当に感謝です。
残り少ないですが、これからも神様が今までしてくださったように素晴らしいことを用意してくださっていると期待して。