アウトサイダーとして。
イギリスに来て早6週間が過ぎました。
この1週間がこっちに来てから自分にとって1番難しさを感じた時期だったように思います。
なにが難しかったかって、やっぱり「居場所」ですよね。
こっちに来てからというものの、「お前の居場所はどこにあるのか」という問いが自分の頭から離れずにいました。
幸い、通っているのがキリスト教系語学学校というのもあり、多くのクリスチャンの友人に恵まれ、また多くの素敵な友人、ホストマザーが与えられていることは本当に感謝なことで、神様が憐れんで下さっているなあと感じています。
同時に難しさを感じることも少なくありませんでした。
自分の通う学校にはアジア人はほんの2,3人で、残りはヨーロッパやアラブ系の人々がほとんどです。
それはそれで結果的に多くのヨーロッパやアラブ系の友人が与えられました。
(左上から時計回りに、チュニジア、スイス、スイス、スイス、ドイツ、サウジアラビア、ブラジル、イタリア、イタリア、サウジアラビア、韓国、スイス)
けれどもやはり仲良くなるにつれ、どこか文化の違いや言語によって壁を感じたり、壁を作ってしまう自分がいたり。
(しかも英語で会話するんですよ。笑)
この壁を越えたいと何度も願い、何度も挑みましたが、しまいには疲れ果てて、いつしか
「アジア人だからか」
「いや昔から自分はこういう立ち位置だったしな」
と、自分に対し、諦めや自分を卑下する感情が膨らんでいき、日本にいるときに見ないように隠し続けてきたどうしようもない弱さが露わになっていくのが自分でも手に取るように分かりました。
また、神様を信じて5年も経つのに、このような感情に未だに心を埋め尽くされている自分の信仰の幼さにも失望していました。
何よりもクリスチャンなのに自分の事しか考えられない自分が一番嫌でした。
そんな中神様は御言葉を通して、一つの道を示して下さいました。(やっとかよとか思いましたが、きっとベストタイミングなはずです。笑)
今週はヨハネ4章のサマリアの女とイエス様が出会うところからメッセージが語られました。
といってもメッセージは英語なので全部聞き取れたわけではありませんでしたが、
「イエス様は、このサマリアの女のように、アウトサイダーでありisolated(多分孤独とか孤立とか)な人々のことが好きで、また(福音の為に)用いてくださっているんだよ」
というメッセンジャーの言葉がすっと心に入ってきました。
(アウトサイダーとは辞書によると「部外者」「異邦人」という意味があります。)
この言葉を聞いた時、本当に嬉しくなりました。
多くの人がこれまで、間違いなくどこかのコミュニティやらで自分のことをアウトサイダー(部外者のように、異邦人のように)だと思った時があると思います。
韓国人として日本で生きること、クリスチャンとして日本で生きることなどなど。
このように僕も例外なくそう思ってきました。
だからこそ、これまでずっと居場所を必死に求め続け、けれども居場所が見つからなかった時は誰にも必要とされていないのではという寂しさと孤独を覚えていました。
けどアウトサイダーで良かったんだなあと。
だって神様が用いて下さるから。
イエス様が目を留めて下さるから。
この気づきは本当に自分にとって大きかった。
自分もいつか用いられるんだと。
アウトサイダーで良いんだと。
神様は、いつも僕を見てくれていて、心から求めた時に応答して下さる方であることを再認識させられたひと時でした。
さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。